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区分建物というのは、一棟の建物を2つ以上の部分に区分して、その各部分がそれぞれ別個の所有権の対象となるその各部分のことのことをいうそうです。

マンションの各室というのが、その典型的な例といえるそうです。

この一室を1個の建物として取り扱うということのようです。

住居や店舗だけでなく事務所や倉庫などいろんな用途で使われるかと思いますが、その画分を1個の建物として取り扱うということのようです。

所有者が一棟全部だったりすると、それを1個として取り扱うことを希望するならそれを1個として、一室一室を1個にしたいということならば、それで登記することも可能だそうです。

またマンションなどの中にある区分建物に通じる廊下、エレベーター室、階段室、屋上などの建物の構造上区分所有者の全員又はその一部の共用されるべき建物の部分は1個の建物として取り扱うことはできないそうです。

登記の対象になる土地というのは、日本の領土内であること、区画された一定の地表で、私権の目的となることができるものをいうそうです。

だいたい日本領土内の陸地部分は不動産登記ができるということのようです。

水面はどうなのかというと、海や川というのは公共用物ということで登記の対象にはならないそうです。

海面下の土地や河川の流水下の土地などのことだそうです。

区画された一定の地表で私権の目的がなることができるかどうかを考えなければならないそうです。

登記能力のある土地というふうに呼べるのは、登記の対象となる土地のことだそうです。

登記というのは、不動産の私人間の権利関係を公示することが目的だそうなので、登記の対象となる土地というのは、客観的に私権の目的となるものでなければならないそうです。

江戸散歩地図作成は、徳川家康が入府したのちの都市開発に進みます。江戸の街は、家康の入府後、100年ほどで、人口が100万人を突破したと考えられています。現在の東京人口は、1300万人以上とされていますが、18世紀のはじめ享保年間(1716~1736)当時の江戸人口100万人は、世界でも類をみないマンモス都市として、世界最大の人口で数であったようです。産業革命直前のロンドンでは約60万人、パリでは約50万人であった事からも、江戸はそのさらに上をいくマス社会を築く大都市であったと考えられています。江戸散歩地図作成において、当時の江戸の様子を探る中では、江戸には、現在の東京にはない無数の中小河川が流れ、多くの斜面には、湧水が多くみられたようなのです。江戸は「水の都」と呼ぶにふさわしい、水場に恵まれた土地であったようです。現代の都市TOKYOには、高層ビルが立ち並び、高速道路の高架が空を遮るなど、都会における視野が狭まっているようにも感じますが、東京のあちこちに架橋がみられ、豊かな水の流れがまだ随所に確認できます。徳川家康が入府後、大規模な土木事業が開始され、江戸をマンモス城下町として築きあげました。自然の地形をそのまま利用しつつ、人工的な手を加える事で、都市開発としての大江戸、のちのTOKYOへの変貌を可能にしたようです。これからの未来都市を築くにあたり、江戸が100万人の人口を抱えるほどの成長を成し遂げた基盤が、自然との共生であり、人工都市としての資源の見分け方が、重要なのではないかと思います。やみくもに開発を試みるのではなく、人々にも自然界にも暮し易い環境を整える姿勢が、今後の私達には必要なのではないでしょうか。

 

最近の日本の四季は、地球温暖化によって、影響を受ける形で、本来の姿を失いつつあるように感じる人々が多いのではないでしょうか?時代とともに地球は変化し、そのような痕跡は、地球のあらゆる箇所に見つけることができるようです。地球の誕生から、地質学などの研究を追ってみると、東京の「有楽町」で発見された「有楽町海進」が、地球の気温変動などを示しているようです。地球の気候変動の中で、気温が低下する「氷河期」と「間氷河期」の気温上昇によって、地球の海岸線の姿形は変化し、現代の地球の姿があります。気温が上昇する事で、海面の水位が上がると、陸地が海の浸食を受け、海岸線が陸地側に移動する事を【海進】と呼び、逆に海岸線が海側に退く事を【海退】と呼んでいます。江戸散歩地図作成の中では、東京湾はかつては「江戸湾」とされ、その江戸湾の海の幸を、江戸前と呼んで人々は、海の恵みを称賛しました。江戸散歩地図作成において、江戸時代の江戸湾は、遠浅の恵み豊かな海に囲まれ、江戸の人々の胃袋を支えていたと言われ、江戸前などの独自の食文化を生み出していくこととなりました。江戸時代の沿岸線は、「干潟」に覆われ、水深が浅かった事から、大型船は着岸する事ができませんでした。

 

現代の大都市TOKYOは、人工的に創られた街そのものですが、かつての江戸の姿も、自然界そのものではなく、人の手で造られた「街の姿」があったのです。古来より人々は自然界の中で、その暮らしを谷や川筋に沿った、水辺の暮らしを基本としていたようです。水辺では、飲み水の確保や水流を使った移動、水飲み場に集まる野獣たちの狩猟など、人々の生活にとっての便宜性が多くあったのだと思われます。貝塚や遺跡の分布により、縄文・弥生時代の人々の生活のほとんどが、川沿いに面していた事が明らかになってきているようです。江戸散歩地図作成では、徳川家康の時代、家康は、江戸も街を作る工程の中で、真っ先に着手したのが、運河の掘削でした。川筋を人工的に整える事で、「飲料水」「水害対策」「物資運搬」などの人々の暮らしに欠かせないものを強化した街づくりを行ったようです。江戸散歩地図作成には、多くの川が流れる江戸の街が、「水の都」であった事を伝えてくれます。当時の川の果たした役目は、現代の存在よりもずっと大きく、様々な機能性を持っていたと考えられています。江戸時代に書かれた関東地域の絵図などには、当時の川筋が残されていますが、現代のその様子とは、だいぶ異なっているようです。徳川家康は、100万人都市となる江戸の街を、川のもたらす生活力・経済力を土台に築きあげたのだと考えられています。

江戸散歩地図作成では、【干潟】について、東京の沿岸沿いの風景を追ってみたいと思います。皆さんは、「干潟」についてご存知ですか?少し若い世代の方ですと、「干潟」を見た事もないという人々がいる可能性もありますよね。それほど「干潟」は東京近辺から姿を消し、過去のもというよりは、過去にそのようなものが存在したことさえも、知らされていない傾向が見受けられます。現在の東京湾は、埋め立てによって、江戸時代の東京湾の姿からは、想像もできないような変貌を遂げてきました。おそらく江戸の人々が、現在の東京湾を眺めたら、そこが「江戸」であったとは、気づきもしないのではないでしょうか?そういった点から東京湾を見渡すと、そこにあったはずの「干潟」の存在が、魔術師のように消え去っているという現実があります。

 

【干潟】

河口部や海岸付近に潮の満ち引きによって、満潮時は海面下に、干潮時には干上がる砂や泥の浅場。干潟の役割として、海や川の水質の浄化、生物の維持、波浪の防御などがあげられますが、干潟は生命が生存していく自然界の根元的な役割を担う場所としても良いほどの、重要な役割を果たしている領域となります。分かりづらい表現かもしれませんが、例えば、私達の生活に必要不可欠な「水」が濁っていては、皆さんは飲み水としては飲みませんよね?濁った水を飲めるようにするには、どうしますか?自然界の中では、そのような綺麗な水を生み出す努力を、私達、人間が見ていないところで、人知れず行っているのが自然界であり、干潟は自然界の一部になるのです。その干潟が、東京近辺から姿を消しているのですから、その事実を、多くの人々が知る必要性があるのではないかと考えています。

 

江戸散歩地図作成中では、江戸時代の海の幸が、東京湾の干潟から、豊富にもたらされていたという事実を追ってみました。