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現代の大都市TOKYOは、人工的に創られた街そのものですが、かつての江戸の姿も、自然界そのものではなく、人の手で造られた「街の姿」があったのです。古来より人々は自然界の中で、その暮らしを谷や川筋に沿った、水辺の暮らしを基本としていたようです。水辺では、飲み水の確保や水流を使った移動、水飲み場に集まる野獣たちの狩猟など、人々の生活にとっての便宜性が多くあったのだと思われます。貝塚や遺跡の分布により、縄文・弥生時代の人々の生活のほとんどが、川沿いに面していた事が明らかになってきているようです。江戸散歩地図作成では、徳川家康の時代、家康は、江戸も街を作る工程の中で、真っ先に着手したのが、運河の掘削でした。川筋を人工的に整える事で、「飲料水」「水害対策」「物資運搬」などの人々の暮らしに欠かせないものを強化した街づくりを行ったようです。江戸散歩地図作成には、多くの川が流れる江戸の街が、「水の都」であった事を伝えてくれます。当時の川の果たした役目は、現代の存在よりもずっと大きく、様々な機能性を持っていたと考えられています。江戸時代に書かれた関東地域の絵図などには、当時の川筋が残されていますが、現代のその様子とは、だいぶ異なっているようです。徳川家康は、100万人都市となる江戸の街を、川のもたらす生活力・経済力を土台に築きあげたのだと考えられています。